パック酒のメーカーが日本酒世界1のメーカーに変貌。緩やかに進める親子間承継

和歌山県海南市は、県庁所在地の和歌山市とみかんの栽培で知られる有田市に挟まれた、人口約5万人の小さな町です。この田園風景の中に、わずか十数年前までは安いパック酒をメインに製造する酒造会社だった平和酒造があります。それが今や、世界的なお酒の品評会に出品すれば日本酒ナンバーワンになり、新卒の社員募集をすれば1人か2人の枠に全国から2千人の応募が殺到するようになりました。

4代目の山本典正社長に、意見の違いをすり合わせながら3代目と二人三脚で成し遂げた経営改革についてお聞きしました。

パック酒はパック酒なりに成功していた

代表取締役 山本典正社長

地方の小規模な酒造会社によくあるように、平和酒造は1980年代ぐらいまではもっぱら桶売りをしていました。作ったお酒はそのまま大手の酒造会社に出荷されます。その大手は多くの場合、ほかの日本酒と混ぜて商品化します。早い話が下請けです。

それを紙パック詰めに切り替え、自社製品として出すようにしたのが、3代目社長で父の文男さんです。この「パック酒」は、スーパーマーケットなどで手ごろな価格、というよりも、最も安い日本酒として売られました。2004年に山本社長が家業を手伝いに実家に戻ったときには、生産のほぼすべてがパック酒になっていました。

山本さん「決して経営状態が悪かったわけではありません。それどころか、父は父で経営を成功させていたんです。しかし、すでに大量生産・大量消費の時代ではありませんでした。パック酒に頼っていては危ないと考えました」

今や世界的な品評会で、日本酒1,401銘柄のうちのトップの評価

脱「パック酒」の最初のヒット商品になった「鶴梅」

山本社長はすぐに新商品づくりに取り組みます。その成果が、地元産の梅などを使ったリキュール「鶴梅(つるうめ)」で、現在まで続く人気商品になっています。

「鶴梅」のリリース後、いよいよ本格的に高付加価値の日本酒造りにも取り組みましたが、この時出した日本酒は振るわない結果となりました

山本さん「パック酒しか知らないところに急に始めたわけで、実力不足でした」

すぐに次の挑戦に取り掛かり、2008年に「紀土(きっど)」のブランド名で新しい日本酒を世に送ります。とはいえ、これも最初からいいものができたわけではありません。

改良を重ね、「紀土」の他、さらに高品質でブランドシリーズとして位置づけしている「無量山(むりょうざん)」シリーズを2016年より手掛けるようになりました。「無量山」シリーズは製造方法、原料にも特にこだわったハイブランド商品。その中の一つである「無量山 純米吟醸」は世界的に権威のあるコンペティション「International Wine Challenge 2020」では1401銘柄が出品された中、最優秀賞である「CHAMPION SAKE」を受賞しました。同時に「Brewer of the year」という1酒蔵のみ与えられる賞を獲得しました。

日本酒1,401銘柄の頂点に立った「紀土 無量山 純米吟醸」と、それを証明するトロフィーや賞状

International Wine Challenge(IWC、インターナショナル・ワイン・チャレンジ)は、1984年に始まった世界最大級のお酒の品評会で、毎年ロンドンで開かれます。当初の対象はワインだけでしたが、2007年に日本酒を対象とした「SAKE部門」が加わりました。その審査には、日本の外務省も大きな信頼を置いています。大使館などの世界中の在外公館に「主要なパーティーで出す日本酒は、この中から選ぶように」とSAKE部門上位入賞銘柄の一覧を送るほどです。

酒どころでもない和歌山県にあり、社員も20名に満たない酒造会社のお酒が、日本酒世界1の評価を受けたのです。しかも、パック酒をメインで作っていたころから十数年しかたっていません。


試行錯誤を繰り返した人材起用と組織改革

「紀土」が生まれ、育っていく背後では、組織改革の試行錯誤がありました。

山本社長が戻ってきた当初は、作業する人の多くは酒造りの時期だけ雇われていました。それを改めるために、大卒新入社員を採用し始めます。しかし、全く定着せず、どんどん辞めていきます。10人しかいなかった社員のうちの4人が、1週間の間に一気に辞めたことまでありました。

杜氏(とうじ)ら酒造りの中心になる人たちは、昔ながらの徒弟制(とていせい)の感覚です。「2年や3年下積みをやらせて、そのあとで徐々に仕事を仕込んでいく」といったつもりでやっていました。一方、大卒社員の方は、「仕事らしい仕事をやらせてもらえない。仕事を覚える機会がない」と焦ります。

杜氏や各工程の責任者に、持っているノウハウを全部公開してもらい、マニュアルを作成することで乗り切りました。伝統産業の古いやり方を全く変えてしまったのです。今では、酒造りの最初から最後までが分かるマニュアルが入社後に手渡されるようになっています。

今でも杜氏が全体の指揮を執ることには変わりありません。しかし、新人や若手社員の側から見てもブラックボックスになっている部分がなくなりました。指示されたことに黙って従うのではなく、その意味を考えるようになり、自分の意見も出るようになったといいます。

闊達(かったつ)な意見交換を象徴するのが、毎日行われているテイスティングです。17人いる社員のうち、その日出勤している全員が参加し、自社製品・他社製品織り交ぜて、約40種ものお酒の味を確かめます。もちろん、ここでの意見が自社製品の改良に反映されます。

自身のものとは全く逆の経営方針を受け入れた父

父・文男さんの経営では、安い商品を幅広い販売形態で売る、現在の限定流通とは異なる販売形態をとっておりました。また若手を通年で育成する現在の方針とも異なり、昔ながらの季節雇用者による製造を行っておりました

「さぞかし、親子間で大激突があったのではないか」「文男さんは早い時期に経営から手を引いたのでは」と考えてしまう人もいるのではないでしょうか。

実は、社長を交代したのは2019年です。経営改革は文男社長・典正専務の体制で進められました。

山本さん「もちろん、意見の食い違いはあります。でも、話し合って収めてきました」

文男さんの意向が今でも反映しているのはパック酒です。高品質のお酒を世に送り、高い評価も受けている平和酒造ですが、売り上げの1割程度とはいえパック酒も生産し続けています。

山本さん「かつてはうちを支えてくれた商品だけに、お世話になった方々もたくさんいます。なによりも、父の思い入れもあります。簡単にやめるようなものではないんですよ」

文男さんは会長となりました。事務所内では、伸ばせば互いの手の届くところに2人の机を置いて、どちらも執務しています。

従業員側の立場を知った人材派遣ベンチャー時代

山本社長は男ばかりの3人兄弟のうちの長男です。子どものころから「自分が継ぐんだろうな」と思っていたといいます。

進学先も、家業の後継者になることを意識して経済学部を選びます。いったんほかの大学に入学した後に、京都大学経済学部を受けなおしたこともあって、卒業したときには25歳になっていました。その1年前から人材派遣ベンチャーの関西支店でインターンとして働き始め、卒業後は同じ会社に入社して東京で勤務しました。

山本さん「入社時は30歳ぐらいまで働くつもりでした。しかし、家業のことも気になって、1年で退社して実家に戻りました。インターンと社員を合わせても2年ですが、この経験があったのと、なかったのとでは大違いだったと思います。人材派遣業なので、人材のことについて具体的に知ることができました。なによりも、自分が従業員側になる経験もできました」

地方の中小企業経営者こそMBAを

経済学部で学んだことについては、

山本さん「まだ、実際の経営を知る前でした。役に立ったのかどうか……」。

これを補うため、2017年から京都大学経営管理大学院で学び直し、2年後にMBAを取得します。

山本さん「いまや、MBAの教育内容も多様化しています。私のように、地方にいる中小企業の経営者にこそ役立ちます。都会と違って学ぶチャンスはなかなかありません。こういった機会を捕まえないと、経営について勉強する機会がないのです」

斜陽化した伝統産業だからこそ、新しいことができる

日本酒(清酒)の出荷量は1973年度の177万キロリットルがピークで、2019年度には3割もない46万キロリットルまで減少しました。さらに、新型コロナウイルス感染症の流行が畳み掛けるように日本酒業界にダメージを与えています。

「斜陽化した伝統産業だといっても、やれることはある。むしろ、そういった状況のほうが全く新しいことを受け入れてもらいやすいし、経営としても面白みがあるんじゃないかな」と、山本社長は言います。実際、社長が取り組んだ改革で、看板となるブランド「紀土」ができただけではなく、売り上げも約3倍に増えました。

快進撃を続ける平和酒造ですが、

山本さん「実は、ようやくこれからと考えているんです。経営では人材の確保と育成がもっとも時間がかかります。今、やっと社員らスタッフの陣容が整いました」。

社長もまだ43歳です。和歌山の小さな酒造会社の挑戦はまだまだ続くようです。

文:柳本学

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