事業承継ストーリー

病気の体をおして承継反対を伝えにきた父。負債7億円から立て直した工務店3代目

地域に密着したまちづくりを行う工務店として、1952年京都府舞鶴市で創業以来、約70年続く大滝工務店。住宅やビルなどはもちろんのこと、社寺文化財など伝統的な建物も手掛けています。

祖父が初代社長、父が2代目社長という環境の中育った大滝雄介さんですが、もともと引き継ぐつもりは全くなく東京のIT企業でエンジニアとして務めていました。しかし、父の病気や会社の経営が危うくなったことがきっかけで、2007年にUターンをして工務店に入社し事実上の事業承継を行いました。

自分のキャリアを築いていた大滝さんが、3代目になると決意したのはなぜだったのでしょうか。その経緯や想い、そして引き継ぎ後に変化した大滝さんの人生について話をお聞きしました。

継ぐ気がなかった家業。父の病で状況一転

京都府舞鶴市で大滝さんの祖父の時代から営まれている大滝工務店。2代目である父は、大滝さんに会社を継ぐなと言い続けていたと言います。そもそも、地元があまり好きではなかったという大滝さんは、高校卒業と同時に京都府を離れ関東の大学に入学しました。継がなくていいとは言われていたものの家が工務店ということ、絵を描くことが好きだったことから、工学部の建築学科を専攻しました。しかし、当時は建築学を全く好きになれず、自分には向いていない道だと確信したそうです。

大滝さん「パソコンを触ることやゲームをすることが好きだったので、エンジニアになりました。IT業界最大手に入社することができ、当時の自分としては順風満帆な日々を送っていましたね。35歳でマンションを購入するために積立も行い、一生東京に住むと思っていました」

しかし大滝さんが23歳の時、状況が一変する出来事が起こりました。父親が脳の病気を患い仕事をすることが困難になってしまったのです。その時は会社の業績も悪く、負債が7億円と危機的状況に陥っていました。その中、周りからは息子を帰らせろという声が強まってきました。

たった一度の人生、事業承継を選択

家業を引き継ぐつもりが全くなかった大滝さんは、周囲の声にずっと抵抗をしていました。しかし半年ほど考え、ここで帰らないといつか後悔する日がくるかもしれないと思い始めたのです。

大滝さん「東京ではそれなりに幸せな日々を送れていましたが、この先どのような人生を送るかある程度予測はできていました。それでも、自分が死ぬ時に大滝工務店を継いでいたらどうなっていたんだろう、と考えてしまうくらいだったら、一回きりの人生だし継いでみようと心に決めました」

こうして社会人2年目の夏、大滝さんはIT企業で3年間働いたら舞鶴市に戻ると決意しました。しかし2代目である父親は、引き継ぐことに大反対だったと言います。病気があるため電車に乗ることも禁止されていた中、舞鶴市から東京の職場に一人で訪れ、引き継いではいけないと伝えに来ました。

大滝さん「最後まで父は、私の人生を大切に思ってくれていたんだと思います。しかしこの時点ではやってみたいという前向きな気持ちで事業承継を決意していたため、気持ちはゆるぎませんでした」

こうして2007年、大滝さんは24歳で舞鶴市にUターンをし大滝工務店に入社しました。

負債7億円、マイナス地点からのスタート

経営の知識は全くなかったという大滝さんですが、まずは7億円の負債をどうするかという問題に直面しました。実は工務店に入社する前は、会社が厳しいとは聞かされていたものの、負債がどのくらいあるのかは教えられていなかったそうです。

大滝さん「負債額には度肝を抜かされましたね。兎にも角にも、立て直しをするために行動を起こしました。銀行に何度も足を運んで相談したり、税理士に相談したり、インターネットや本から知識を得たり。帝国データバンクのデータを何十社からも取り寄せ、同業他社でうまくいっているところのデータを見ては、自分の会社と比べて何が違うのか分析も行いました」

日中は営業や建築現場での仕事を行い、夜は数字とにらめっこする日々。入社してすぐに事業承継を行わず代表の席は2代目のままでしたが、経理・経営はすべて大滝さんが行っていました。病気を患っている先代から学べることはごくわずか。すべてが手探りだったといいます。

大滝さん「理数系なので数字がもともと好きでした。どこを改善したら良いのかシュミレーションをしたり、粗利をどのくらい上げれば収益を取れるか計算したりと考えていくのは苦ではありませんでした」

2007年は売上が13億円ありましたが、営業利益が700万円。決済リスクを考慮するとキャッシュはマイナスでした。そこから大滝さんは、付き合いだけで取引をしていたところを辞め、加入していたフランチャイズも辞め、バブル時代に購入していた不動産を6物件も売り払いました。そうすることで2009年は8億円まで売上が下がったものの、利益が2300万円になりました。そこから1年ごとに1億ずつの売上を出せるようになったといいます。

大滝さん「7億円あった負債は1億9千万円までに減らし、2012年からは負債返済から投資に移行することができました。しかし、事業承継で大変だったのは負債返済だけではありませんでした」

初代・先代から学んだことが社内環境を変える

大滝工務店に入社して以来、会社では新人ではあるものの経営者として社員を動かしていかなければならなかった大滝さん。社員とのコミュニケーションをうまく取ることができず、最初は孤立していたといいます。

大滝さん「自分はコミュニケーションを取ることがあまり得意ではなく、社員にチクチク言っては嫌われていました」

祖父が経営していた時から働いている社員もいる中、急に舵を取ることになった大滝さんが彼らの和に入るのは困難でした。入社し始めの頃は週末の度に東京に戻って、友達に会いストレス発散していたそう。

大滝さん「それでも人生一度きりだし、やるしか無いと思っていました。会社が潰れて倒産するとなると、我が家は自己破産です。つべこべ言ってられない状態でした」

大滝さんが社員とのコミュニケーションを改善するために意識したのは、祖父の言葉でした。カリスマ性があり多くの人に慕われていた創業者である祖父は、お客様や社員を第一に考え、社員の家族も大事にする人でした。会社を立て直すために社員に厳しい言葉をかけつつも、相手や相手の家族を気遣うよう、意識して言葉がけをしました。

大滝さん「会社の利益も徐々に上がったため、2012年くらいからは社内の雰囲気がよくなっていきました」

あらゆる困難を乗り越えた大滝さんは2015年、33歳の時に、正式に父から会社を引き継ぎ社長に就任しました。

日本が誇る大工の技術を世界に広めるのが次のビジョン

大滝さんの次のビジョンは、日本の大工の素晴らしい技術を世界に広めることだと言います。

大滝さん「海外の建築物を見て、日本の大工の技術や精神性は、世界に誇れるものだと思いました。特に木造技術に関しては卓越しています。より大工としてのプライドを持ってもらいたい、そしてその技術を後世に残していきたいこともあり、日本の大工を世界に広めていきたいと思います」

その一歩として2021年には、跡継ぎがいなかったお寺専門の設計事務所と工務店をM&Aしました。そして、子どもに大工の体験をしてもらうイベントを開いたり、来年には大工塾を開き、英語で発信したりする予定だそうです。

大滝さん「事業承継したことは、自分の人生を大きく変えました。想像以上に楽しいし、社会に対してインパクトを与えられます。社会を良くしていくということは、大手企業の一社員だった時には考えていませんでした。継いだ後と前だと自分の人柄も全く違います。チャレンジ精神が強く、コミュニケーションを取れる人間になりました。経営は楽しい、それをぜひ皆さんに伝えたいですね」

事業承継は決して簡単なことではないかもしれません。責任が伴うからこそ辛いことはもちろんあります。しかし、その責任の重さはやりがいにも繋がります。すごい濃い人生を送れていますと笑顔で話してくれた大滝さん。大滝工務店は全国に、そして世界へと羽ばたいていくかもしれません。

大滝工務店

文・Fujico

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