立ち入り禁止の町工場が30年ぶりに開国!?鎖国下で培ってきた唯一無二の技術で社会に躍り出る。

東京葛飾区であらゆる型抜き加工技術の研究・開発を手掛けてきた「有限会社精工パッキング」。創業61年目の同社で代表を務めるのは3代目の平井秀明さんです。

会社がある場所にはもともと、お祖父様が経営されていたデザイン事務所がありました。しかしお祖父さまの他界によって事務所は廃業。代わってお父様は会社で培ってきた技術を活かして型抜き業を開始。やがて兄と2人で精工パッキングをスタートさせます。

油とゴムの臭いの中、お金で釣られて始まった型抜きの日々

元々家業に興味はなかったという平井さん。高校生の頃は夏休みにお手伝いなどで出入りすることはあっても、「油とゴムの臭いがすごい」という、ぼんやりとした感想しかもっていなかったといいます。

そんな平井さんに転機が訪れたのは、1991年のこと。大学生活となり、モテたい気持ちからスキーショップでバイトを始め、半年ほどたった頃にお父さまから「いつまでバイトをしているんだ?」と声をかけられます。「給料は今より多く出す、免許の費用も負担するぞ」とお金で釣られ、精工パッキングの作業員としての生活が始まりました。

平井さん「あとで聞いてみたところ、父親には継いでほしいといった想いはなく、ただ現場に作業員が欲しかっただけだったそうです。結果的には、アルバイトから社員に立場が変わった後も何度も父親と衝突しながら、現在まで35年以上、型を抜き続けることになるんですけどね」

「じゃあお前がやれば?」売り言葉に買い言葉で代表就任

社員となり10年以上経った2013年。平井さんと精工パッキングにとって衝撃的な事件が。初代社長であり、会長として勤務していた叔父様が癌を患ってしまったのです。余命は一年。叔父様が倒れられたのをきっかけに、平井さんが事務作業を行うこととなりました。やがて余命宣告通りの2014年、伯父さまは亡くなられます。

叔父から引き継いだ事務作業は今でも平井さんが行っているそう

経理作業を一通りこなせるようになっていた平井さんは、叔父さまがいなくなった会社の通帳を見て、会社の危機を感じたと言います。

平井さん「叔父は事務作業のほかにも、お得意さんに毎日挨拶に行っていたんです。そのおかげでお仕事をもらえている部分があったんだなと実感しましたね。これからは新たな顧客の開拓などを行っていく必要性を感じました」

しかしお父様は取り合ってくれず、翌年にはさらに経営は傾いていきます。「本当にやばいよ」と平井さんが伝えると、お父様は驚きの言葉を放ちました。

「ダメになった時は工場を壊して、マンションにすれば俺は食っていける。お前は何とか別のところで頑張れ」

当時、平井さんは40歳。精工パッキング以外の社会は知らず、他の業界で活かせそうなスキルを身に付ける機会もありませんでした。大学を卒業した頃、一度社会に出て外の世界を経験したいと提案するも、お父様に止められていたのです。自分を業界に引き込み、留まらせた張本人が無責任に頑張れと声をかけている。「それはいくら何でもないだろ!?」と平井さんの我慢は限界に達したそう。

そして父親からは「じゃあお前がやれば?」と言われた平井さん。売り言葉に買い言葉で、平井さんが精工パッキングの3代目に就任することが決まった瞬間でした。

「精工パッキングは何をしている会社なの?」という衝撃の一言

精工パッキングを継いだ平井さんはまず、亡くなった叔父様が設立に尽力し長年所属していた「葛飾区ゴム工業会」へと足を運び、代表就任の挨拶をすることに。しかし挨拶の場で平井さんは「ところで精工パッキングは何をしている会社なの?」という驚きの声を聞いたと言います。

平井さん「30年間所属している工業会の方からあの言葉をいただいたときは衝撃でしたね。これには父の代にあった、ある出来事が関係しているんです。

事務所を建て替えたばかりの平成元年のことです。お客さんにお願いされて工場見学を行った際、機械の構造を把握されてしまい、技術を盗用されてしまったことがありました。それ以来、工場は関係者以外立ち入り禁止の掟ができて、30年間、言ってしまえば鎖国状態だったんです。僕はそれが町工場の常識だと思っていて、新聞屋さんですら玄関で追い返していました」

なによりもまず精工パッキングを知ってもらう必要があると判断し、平井さんは開国に踏み切ります。

きっかけは工場ゴミ。0.2mmの輪ゴムからスタートした躍進劇

精工パッキングの他にも多くの町工場がある葛飾区。商工会議所は、葛飾ブランド「葛飾町工場物語」という認定制度を設けていて、平井さんはまず、この認定を受けようと動き始めます。認定された暁には同名のPRマンガに取り上げられ、認定された年は各種展示会への参加が無料となるため、知名度を上げるためには認定されることが必要不可欠でした。

しかしブランドに認められるためにはどうしたらいいか、営業終わりに悩む日々が続きます。そんなある日、平井さんの目に入ったのは細い糸くずのようなゴミ。摘まみ上げるとそれはゴムの型抜きくずのようでした。

平井さん「ずいぶん細いゴミが出るんだなと思いましたが、『これが失敗で出るんだったら、実際に作れるんじゃないか?』と閃いたんです。そうして出来上がったのが、0.2mmの輪ゴム。伸ばすと均一に抜けているのがわかり、加工技術の精密さを示すのにはぴったりでした」

見えないほど細い0.2mmのゴムは、カテーテル手術といった医療現場で使用されている

こうして、精工パッキングはその加工技術の高さが認められ、2016年に葛飾ブランドに認証、初の展示会に出展することに。初回の展示会は型抜きの説明をしてもインパクトを残せず失敗に終わったものの、2回目の展示会では技術力が伝わりやすい0.2mmの輪ゴムを配布し大成功。ブースに人があふれるほどの注目を集め、多くの業界の人とも名刺交換ができたそうです。

しかし0.2mmの輪ゴムには細すぎるゆえに見えづらく、インパクトに欠けるといった欠点がありました。そこで、見えやすくてカラフルなものを目指して開発されたのが、風呂敷にインスパイアを受けたポケットサイズのウォレット「ポレット」です。

BtoCビジネスは長い精工パッキングの歴史で、一度もチャレンジしたことがありませんでした。そこで2018年、クラウドファンディングを利用して需要を探りつつ、リスクを減らしたチャレンジをすることに。ポレットは、創業者である父が使っていた風呂敷のような名刺入れから着想を得てオリジナルに開発した、カラフルで使いやすい小物入れです。承継を機につくったHP やSNSで広報に力を入れたのが功を奏し、目標金額の10万円を大きく上回る70万円を集めてクラウドファンディングは大成功。

ポレットがきっかけとなってTVに取り上げられたり、国際的に活躍するアパレルブランドとの取引が実現したりと、精工パッキングは様々な分野から注目を浴びる存在となっていきました。

鎖国。金に釣られた自分。父の就活反対。すべてがうまく組み合わさって今がある

平井さん「父親からは『お前の代になって、名前だけ同じで違う会社みたいだ』と冗談で言われたことがあります。

30年間鎖国していた会社が急に対外的な活動を始め、成功している。父がそう思うのも無理のないことかもしれません。でも、やっていることは今も変わらずビクトリア型での型抜き作業なんですよね。お客さまへの信用を第一に考えて、技術だけでなく価格や納期についても決して妥協しない点もずっと同じです。

それに、きっかけとなった0.2mmの輪ゴムは精工パッキングのこれまでの技術が結集してできたものなんですよ。30年の鎖国の影響で、まるで社会から切り離されたガラパゴス諸島みたいに、会社の技術は独自の進化を遂げていましたから」

平井さん「父が鎖国をしたこと。18の頃に業界に私を引き入れたこと。就活をやめさせ社会を経験させなかったこと。何か一つが欠けても今の成功はなかったと思います。結果的には、いろいろなことがうまく組み合わさったからこそうまくいったんです。僕の青春時代だけは無くなりましたが(笑)」

コロナ禍が続く中で、売り上げは徐々に回復しはじめているという精工パッキング。最後にこれからの目標やビジョンについて伺いました。

平井さん「これまでにITやインターネットを使って広がった知名度を活かして、もっともっと営業活動をしていこうと思っています。BtoCビジネスには継続的にチャレンジしたいと考えているので、今はその準備をしているところです。得意先相手のBtoBで地盤を固めつつ、新たに始めるBtoCの両輪で知名度も売上も伸ばしていけたらいいですね」

売り言葉に買い言葉からスタートした平井さんの3代目社長としての道。今の会社を支えているのは創業60年以上の精工パッキングの技術はもちろん、父の鎖国や平井さんの決断、さまざまな要因が重なった結果です。本格的にBtoCビジネスを始めるにあたり、別会社をつくる準備の真っ最中だという平井さん。独自の高い技術力を誇る精工パッキング。長い鎖国期間を経て、今まさに社会へと躍り出ようとしています。

文・高橋昂希

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