解雇の危機から一転して社長に就任、創業50周年の編集制作会社を守り続ける熱い思い

東京・神田神保町、書店や古書店に囲まれた雑居ビルにある創業50年の編集プロダクション、株式会社アート・サプライ。マイナビ出版や日本文芸社などをはじめとした、出版社や企業から受託し、実用書や雑誌、企業広報誌、広告などの編集制作を行っています。

「新しいオフィスを決めるとき、5、6軒内見したけれどピンと来なかったんです。最後の1軒がこの神田神保町。住所を聞いてすぐに『ここだ』と思いました」と語るのは、代表取締役の松田政紀さん。引き継ぎまで1カ月もない慌ただしい中で決めたオフィスは、紙のメディアにこだわる会社の門出にぴったりの場所でした。

デジタル系出版物の編集者として駆け抜けた、社員時代

松田さんはもともとアート・サプライの社員でした。大学で学芸員の資格を取ったものの、就職氷河期に差し掛かり就職先がみつからず、フリーター状態になっていた松田さん。そんな時、アート・サプライの社員として働いていた大学時代の先輩が、アルバイト先として紹介してくれました。

松田さん「半年ほどバイトとして働き、上司から『正社員の面接を受けてみれば』と誘われました。入社した1996年当時は、創業者で先代の進藤(尭)社長と話す機会はほとんどありませんでした。ただ、『やりたいならやってみなよ』と言われたことはよく覚えています。当時行っていた会社説明会に一度出席しただけで、採用を決めてもらったこともあり、“拾ってもらった感”がありましたね」

折しも「Microsoft Windows 95」や「Windows 98」、「iモード」など、世の中はITに沸いていた時期。松田さんは大手デジタル機器メーカーの広報誌や、創刊花盛りのパソコン雑誌、パソコンのマニュアル本を企画から編集、DTP(=デスクトップパブリッシング、パソコン上で書籍のレイアウトなどを行うこと)まで多数手がけるようになりました。

「君が継ぐ?」と冗談めかして言われたことも

編集プロダクションは、比較的若いうちに会社を辞めてフリーランスになったり自分で会社を立ち上げたりする人も多い業界です。松田さんは社員として働いていた期間を「次々にやりがいのある仕事が入ってきて楽しかったんですよ。それに、最新の情報を世の中に発信できているという充実感もありました」と振り返ります。

そして実績と経験を重ね、入社から5年も経たないうちに取締役のすぐ下のポジションに昇進。社長と会話する機会も少しずつ増えてきたそうです。

その中には経営の話もチラホラ。社長から「取締役たちは継ぐ気がなさそうだから、君が継ぐ?」と冗談めかして言われたこともありました。

しかし、本格的な承継の話はしないまま、社長はがんのため60代で急逝。松田さんにも社員たちにも大きな衝撃が走りました。

「誰も継がないのはもったいない」、再出発を決意

社長の突然の訃報を受け、社長の親族がすぐに会社を引き継いだものの、承継の準備が十分でなかったこと、経営を担っていた取締役が退社したことなどが影響し、次第に経営状態は悪化していきました。

松田さん「新体制になってから2年。新社長から『会社を整理する』と告げられました。僕も含めて全社員が突然、解雇通告を言い渡されたのです。社員は15人。20代前半から30代前半くらいの働き盛りがほとんど。

まだ入社して2年目という社員もいました。立場上、若手から『どうすればいいですか』と相談を受けつつ、僕自身どうすればいいのか考えていたときに、新社長から『続けたいなら譲ります』という話がありました」

会社を引き継ぐこと。それは社員たちと多額の負債も引き受けるということでもあります。すでにオフィスは退去が決まっており、タイムリミットは1カ月もありませんでした。

松田さん「そのとき僕は40歳。自分の今後を考えたとき、進む道はフリーか自分で会社をつくるかどちらか。自分としては会社をつくって何人かで一緒に仕事をしたいという気持ちが強かった。

だったらこのまま会社を引き継いだほうが、取引先もそのまま引き継ぐことができるので有利かもしれない。負債はあるけれど、赤字部門を整理すればうまくいくだろうという見込みもありました」

しかし、15人全員の雇用を維持することは厳しく、採算を考えると10人までが限界。そこで社員一人ひとりと話し合い、それぞれの意志を確認することに。

残ることを希望した社員にも、年齢やキャリア、今後支払える給与、経営状況などを検討した上で、「別の会社を探したほうがあなたのためになる」と告げなければならない場面もあったそうです。「負債のことよりもそれが一番しんどかった」と述懐します。

松田さん「話し合いがこんなに大変だとは想像していませんでした。離れざるをえなくなった社員は、1回目の解雇通告後、さらに僕が首を切った形になってしまい、2回もつらい経験をさせてしまった。本当に堪えましたね」

苦渋の決断の末、松田さんを含めて7人で再出発したのは2010年のこと。苦境に立たされながらも、諦めずに引き継ぎを選んだ背景には、会社への想い入れがありました。

松田さん「進藤社長には恩がありましたし、社員もたくさん残っていた。それなのに親族もOBも誰も継がずに廃業してしまうのは寂しいなと思ったんです」

デジタル時代も、こだわり続ける紙の文化

これまで多くの出版プロジェクトに携わってきた松田さんですが、会社の経営は初めてのことだと話します。

松田さん「社員数が少ないので最初はチームが少し大きくなったような感覚でした。でも、社員たちにとってみれば、やはり会社。自分はチームのリーダーではなく社長だという自覚は、後から芽生えてきました」

経営は決して順風満帆とは言えません。2011年の東日本大震災では広告関係の受注が激減。2015年ごろには出版不況が加速しました。

この数年はWebメディアの制作も手掛けるようになりましたが、現在も紙メディアの制作が7〜8割を占めています。急増するWebメディア専門の制作会社の若い社長から「出版中心のままで大丈夫ですか」と会社の将来を心配されることあるそうです。

松田さん「このまま出版の仕事は減少していくのかと思ったら、ここ数年は『書籍をつくれる編プロが少なくなった、だからアート・サプライに頼みたい』という依頼が舞い込むようになりました。

続けられるならこのまま紙中心でいきたい。本をなくしたくないんです。何か新しいアイデアが浮かぶと、つい『こうしてページをめくったら楽しいだろうな』と目次に落とし込んで考えてしまう」

松田さんは社長として経営に向き合いながら、同時に編集者として自ら手を動かし本を作り続けています。

先代から引き継ぐ、自分で考えるという社風

今年、アート・サプライは創立50周年を迎えます。あらためて先代のことを振り返ると、「先代の思いを引き継げるほどつながりは深くはなかった」と照れ笑い。

松田さん「実際、社長も上司も誰もなにも教えてくれない会社でした。まだ入社してまもない頃、雑誌の立ち上げに参画することになって『どうすればいいですか』と聞いたら『自分で考えて』と言われて(笑)。

とにかく自分で考えて道筋をつけないとならない。そうした経験が今、経営にも生きていると言えるかも。自力でやりたいことをやるという社風は先代から受け継いでいると言えるかもしれませんね。そもそも、やりたいこともないまま、この業界に足を突っ込むと痛い目に遭うのは、今も昔も変わらないと思います」

デザイナーでもあった先代社長の意匠である、赤い三角形のコーポレートマークは今も現役。会社の入口に掲げられています。

松田さん「出版業界にはアート・サプライから独立していった人たちがたくさんいます。『在籍していた当時は忙しすぎて大変だった』と言う人も多いけど、『勉強になった、よかった』という卒業生もたくさんいる。出版社の編集者とは違い、制作全般のセンスと知識を持っていることが、編プロの編集者の強みです。そんな人材を育てて、自社だけでなく、世の中で活躍する人になってほしいですね」

アート・サプライHP

文・安楽由紀子

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