事業承継ストーリー

『焼うどん』発祥のお店を引き継いだ研究所。作りすぎない、緩やかな連帯という食文化の形。

福岡県北九州市。新幹線が通る小倉駅周辺は、モノレールや高いビルがあるかと思えば、無数の呑み屋に立ち呑みができる酒屋があったりと、情緒と未来感が渾然一体となった街です。そして至るところから漂う美味しそうな匂い、そんな魅力溢れる場所で焼うどんは生まれました。

昭和20年、戦後に小倉で闇市が始まった頃、関西では中華麺を炒めた焼そばが庶民の胃袋を掴んでいました。しかし食料が不足していた時代、中華麺はなかなか手に入りません。そこで試しに乾麺を鉄板で炒めてみたところ、思いのほか人気だったのが私たちの知っている焼うどんであり、発祥のお店「だるま堂」は今も同じ場所で営業を続けています。

焼うどんをB級グルメとして全国区に押し上げ、だるま堂を承継した「小倉焼うどん研究所」の所長、竹中康二さんにお店を引き継ぐことになった経緯を伺いました。

隠れたグルメ「焼うどん」発掘の立役者

竹中さん「私が研究所を立ち上げた2001年頃、小倉が焼うどん発祥の地だとは、街の人でさえほとんど知りませんでした。5、6年前に西日本新聞がとったアンケートではおよそ3割の人が知っているという結果でしたが、今だともう少し認知度も上がったかなと感じています」

小倉焼うどん研究所の所長、竹中康二さん

竹中さん「まちづくりや観光に興味があったので、もともとホテルマンをしていたんです。といっても、小倉は今のように食べ呑みができる賑やかな場所ではなくて、訪れる人のほとんどはビジネスマンでした。小倉らしいものを食べたいという話をよく聞いていましたが、行政が推進していたのは『小倉牛』や『合馬(おうま)タケノコ』、『玄海灘でとれた魚』のような高級品ばかり。

どれも博多ラーメンのように気軽に食べることはできません。『もっとこう、帰りの新幹線で小倉の余韻に浸りながらに楽しめるような隠れたグルメはないだろうか』そう考えていた時、だるま堂が焼うどん発祥のお店だと知っていたこともあり、『これだ!』ということで研究所を立ち上げました。

当時はまだ、小倉焼うどんはおろかB級グルメという言葉もほとんど知られていませんでした。2002年に開催された、富士宮焼そばと小倉焼うどんが勝負する企画『天下分け麺の戦い』がB−1グランプリのきっかけとなり、2012年に小倉で開催した第7回B−1グランプリで小倉焼うどんは全国的にも知られるようになりました」

研究所でイベントに出店した際の様子
創業当時から変わらない『だるま堂味』と『小倉焼うどん研究所味』の両方が楽しめる。写真はだるま堂バージョン

一般的な焼うどんはソースの味がメインで、どちらかというとこってり。しかし、だるま堂の焼うどんは魚粉が味の決め手になっていて薄味です。研究所が出店するイベントでは一度に大量に作る必要があるため、湯がく必要のない生麺を使用。お子さんが多いのですこし甘めの味付けにしているそう。

だるま堂3代目として、創業者と先代の思いを引き継ぐ

イベントへの積極的な出店や味の探求で本業のホテルマンよりも研究所の仕事が忙しくなってきた2004年頃にホテルマンをやめ、門司の赤レンガを保存するNPOを立ち上げるなど、仕事や興味は本格的にまちづくり関係へとシフトしていったそうです。研究所を立ち上げたそもそものきっかけだっただるま堂を2020年に引継いだ竹中さんに、創業者や先代とはどのような関わりがあったのかお聞きしました。

先代の坂田夫妻

竹中さん「だるま堂は私で3代目です。創業者の弁野氏、もとはお店のスタッフだった先代の坂田夫妻が続けて営業していましたが、坂田の旦那様が亡くなられた後は奥様である坂田チヨノさんがお一人でお店を回していました。坂田さんも高齢でお店の経営も厳しい状態だったので、ちょうどその頃から私が少しずつお手伝いを始めました。創業者の奥様で、建物のオーナーでもある弁野さんは今もご存命で、彼女に『いずれは継いでほしい』と相談されたのが2018年頃のことです。

ただ、肝心の坂田のおばあちゃんからは『死ぬまでやるよ!』と元気よく言われて、まだまだ大丈夫かなと思っていました。でも2019年の6月に坂田さんが体調不良でお店は休業してしまって、12月にお亡くなりになりました。急でしたが、本当に死ぬまで続けてくださいました」

ピンチを覆したのは、商工会議所が出してくれた推薦状のパワー

竹中さん「できれば間をあけずにお店を続けたかったんですけど、70年以上使い続けていた厨房はかなり年季が入っていたので、全面的に改装してから2020年のGW明けを目標に再オープンする予定でした。

竹中さん「そんな中でコロナ禍となり、行政は既存店舗に対する支援で手一杯。だるま堂はあくまで新規開業という形だったので後回し、前年度の売上もないので該当する助成金が中々見つかりませんでした。そこで助けてくれたのが商工会議所だったんです。

相談してみると、『だるま堂は単なる飲食店ではない。北九州の財産だ』と言って頂き、銀行宛に推薦状を書いてくれました。通常でも融資まではだいたい1ヶ月、コロナの影響で2ヶ月は掛かると考えていたんですが、3週間弱というスピードで対応して頂き、本当に助かりました」

食文化は、その味を残さなければ意味がない

商工会議所と銀行の助けを借りて、クラウドファンディングも活用して資金集めに奔走していた竹中さん。なんとか復活にこぎつけて7月には無事オープンしたものの、周囲には疑問の声もあったそうです。

竹中さん「焼うどん以外を出している他の飲食店の方々は喜んでくれたんですが、同業者の中には『やめてくれ』という人もいました。『あの味はもう出せない。承継したお店をだるま堂と名乗っていいのか』という意見は分からなくもありません。では、かつてだるま堂があった場所に記念碑でも立てておけばいいのかと言えば、私は違うと思います。食文化はその味を残さないことには意味がありませんから」

お店を切り盛りする2人の研究所所員と竹中さん

竹中さん「レシピについては幸い、先代がお店に立っていた頃からその様子を動画で撮影して残していました。それを見ながら作り方を覚えて、常連客に食べてもらうことで再現しています。お客さんの中には『おばちゃんの頃より量が多くて美味しい』と言ってくれる人もいるんですよ。

坂田のおばあちゃんは焦げが付いた鉄板をそのまま使ったりしていましたからね。お皿に盛るときも、全部盛ればいいのに途中で捨てちゃったり、調理中もボロボロとこぼすので、量が以前の倍くらいあるんじゃないかとも言われました(笑)それでもお客さんが来てくれていたのは、だるま堂がまさに単なる飲食店ではなかったことの証だと思います」

かつては1階のカウンター席だけだっただるま堂。新しくつくったテーブル席のある2階は、知り合いを通じて地域の大学生に設計と施工をしてもらったそうです。業者に頼めば簡単に済むところを、まちづくりに興味のある人たちを巻き込みながら作り上げたかったと振り返る竹中さんに、だるま堂と研究所の今後についてお聞きしました。

「焼うどん=土曜日の昼」というイメージをそのままに

竹中さん「今、研究所ではだるま堂の商標登録とオリジナル商品の開発もしていて、私を含め研究所のメンバーが食品会社に営業しています。いずれはセレクトショップや駅、空港などのお土産売り場に置く予定で、イベントが軒並み中止になっている今だからこそできることに力を注いでいます。

竹中さん「焼うどんにはちゃんとした作り方や決まりがあるわけではありません。『焼うどん=土曜日の昼』というイメージがあるかも知れませんがその通りで、外食ではなく中食。味の統一性もそれほどありません。マップに載せているお店は鳥町食道街以外にもたくさんありますが、中には焼いてないお店もあるくらいです(笑)でも、そうした緩やかな連帯があるからこそ競争が起きず、食べ比べする楽しみも生まれます。文化はつくるものではないので、小倉焼うどんは個性を尊重しながらのびのびと続いてほしいと思います」

小倉焼うどん研究所は長い間、任意団体として活動してきました。しかしだるま堂の承継を機に、従業員の雇用や食文化を持続させるためにも、2021年には法人化することが決まりました。昭和の趣を残しながらも変化を厭わない小倉の街のように、焼うどんも様々な形で進化を続けています。あなたの思う焼うどんは、どんな味ですか?

文・清水淳史

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