事業承継ストーリー

加賀藩前田家の時代から続く、茶文化を受け継ぐ丸八製茶場。6代目は、「ほうじ茶」の魅力を深堀して可能性を高める!

温泉地や歴史的な旧跡にも恵まれ、観光地としても有名な石川県加賀市。丸八製茶場は、この町で品質にこだわった日本茶を作り続けている会社です。1863年の創業から2021年まで約160年の間、お茶を取り巻く環境が変わりゆく中でも時代に応じて生き残ってきました。

2013年に6代目を継いだ丸谷誠慶さんも、新しい取り組みに挑戦して会社を守り続けている立役者の1人。日本茶という伝統産業でありながら、斜陽産業をどう舵取りするか、挑戦を続ける丸谷誠慶(まるやまさちか)さんにお話を伺いました。

160年の歴史の裏には、いつも挑戦があった

丸八製茶場・6代目の丸谷さん

6代目の丸谷さん。160年も会社を続けていると時代の変化も激しく、時には環境が180度変わることもあったと語ります。

丸谷さん「丸八製茶場は代々、新しいことをしてきたから今があります。このエリアは、加賀藩前田家が奨励した茶の文化が背景にあり、創業は1863年で江戸時代末期。最初は茶農家からスタートしたのです。その後製茶の技術を高めていき、明治に入るとお茶が輸出産品として重宝されたため、生産を増やしていきました。

しかし3代目の昭和になると、戦争が始まります。戦時中は国の方針により、茶畑は作物畑に転換されました。戦後に入ると、輸出の主役が自動車や電機製品に代わります。そこで生産よりも、販売に力を入れるようになったのです」

そして丸谷さんの祖父と父の代で、販売に対する新しいアプローチが行われたと話します。

丸谷さん「4代目の祖父と5代目の父も、まったく異なるチャレンジをしていました。祖父は新しい販路として、スーパーマーケットや旅館に目をつけました。石川県では、40数年前からスーパーマーケットが流行り、増えていったのです。そこに新しく参入し、お茶を販売してもらうように営業しました。

同じく温泉旅館での扱いが増え、土産コーナーで販売。しかしその後、経済成長は停滞期に入り、スーパーマーケットは淘汰されるようになりました。温泉旅館もかつてのような団体旅行による賑わいがなくなりました」

時代の流れを先読みして、量から質へとシフトした先代

祖父の開拓した販路が衰退したため、5代目である父の代になり、かつての販路だけだと売り上げが伸びなかったそうです。

丸谷さん「高度成長期は効率よく作っていこうという考えの時代。それは食品についても同様で、食品添加物に頼り、効率化を目指しました。悩んだ父は食品の勉強会に通い、大量生産・大量消費の限界と、品質へのこだわりの重要性を学びました。そこで父は、価格競争の激しく、当時停滞していたスーパーマーケットへの卸売りから、直販店での販売を始めることを検討しました」

献上加賀棒茶は、高級ほうじ茶という新ジャンルを作り出した

丸谷さんのお父さんが決めた方向性が、その後会社に思わぬチャンスをもたらします。

丸谷さん「1983年のこと、全国植樹祭のために昭和天皇が石川県に来られることが決まり、その宿泊先だった地元ホテルから『最高級のほうじ茶を』という依頼がありました。昭和天皇は八十歳を超えていて、緑茶を飲まれず、ほうじ茶しか飲まなかったそうです。

良いお茶といえば抹茶や玉露がありますが、ほうじ茶はもともとB級品です。日本茶は新芽(一番茶)を緑茶として販売し、ほうじ茶は二番茶、三番茶でつくられるものだったからです」

昭和天皇への献上がきっかけで「献上加賀棒茶」が誕生!

この時昭和天皇のために着手したほうじ茶作りが、新しい商品の生まれるきっかけとなります。

丸谷さん「父はとびっきりのほうじ茶づくりに挑戦します。良質な一番茶の茎の部分を素材に、独自の遠赤外線バーナーで浅炒りにする技術を加え、独特の風味をかもす一級品の『ほうじ茶』に仕上げたそうです。

旅館さんから聞いた話によると、昭和天皇が帰られる際にほうじ茶を全部持って帰られたそうです。さらに旅館さんから商品化の提案を持ちかけられ、『献上加賀棒茶』の販売がスタートしました」

通常の廉価なほうじ茶の10倍もする100グラム1000円で販売したものの、当時の陛下への献上の影響もあり、「献上加賀棒茶」の認知は広がります。先代(誠一郎さん)の丸八製茶場は卸から直販の会社へと踏み出し、直営店舗を出店していきました。

とにかく地元を出たかった学生時代、エンジニアとして外の世界へ

時代の変化に巧みに対応し、会社として成長し続けてきた丸八製茶場。しかし6代目の誠慶さんは『真っ先に田舎町を出たい』と思い、大阪の理系に進学。大学院を卒業後はメーカーに勤務しました。

丸谷さん「兄弟で男は私一人だったので、いずれは戻らないといけないかなと漠然と考えていましたが、父からは30歳ぐらいまでは好きなことをやってもいいと言われていました。父親は他で働いたことがなかったので、自分にいろいろなことを経験させたかったのでしょう。

そして約束の30歳になる年、故郷に戻りました。家族からはすごく頼まれたわけではなかったのですが、祖母だけは子供の頃から『将来は頼むよと』と言われてきたこともあり、家業に戻ると伝えた時は、祖母が一番、喜んでいました」

2008年に家業に戻ったものの、具体的にいつ社長になるかは決まってはいませんでした。現場でほうじ茶を作るということに2年半ほど携わるところからスタートしたと言います。

丸谷さん「それまではデジタルな世界にいたのが、職人の勘の世界に飛び込んだので戸惑いもありました。いつかは味や製法もデジタルなものに数値化できないものかと今でも思案中です」

お茶の価値を変えたいと、デザインの刷新に着手

その後、丸谷さんは専務に就任。新しいチャレンジもしたそうです。

丸谷さん「お茶のティーバッグの開発を、当時は実行していました。そもそもお茶は仏事需要が多かったので、それを覆してお祝いなどのハレ需要も取り込みたいと考えたからです。石川県の伝統工芸品・九谷焼の若手作家・上出惠悟さんによる、ポップなデザインを取り入れて、パッケージのデザインを刷新しました」

これまでのお茶のデザインにはなかったポップなものに

社長就任してやるべきことを積み上げ、自覚も芽生えていった

そして、ついに社長交代となったのが2013年です。

丸谷さん「創業から150周年になる2013年が、社長交代のタイミングでした。1年前ぐらいに決まりました。しかし就任当初、スタッフは父の会長の方向を見ていたように思います。父が会長になり、私は共同代表で、父親の言うことを待っていた自分もいました。会社のことが自分ごとになっていなかったので、仕方ありませんでしたが…。

どうすればいいかという答えがあるものでもなかったので、まずはできることをやるしかないと考えました。数年たって自分自身で自然と施策を打つように変わっていきました」

会社を自分ごととして捉えるために、丸谷さんは様々なことにチャレンジします。社員数が増えたこともあり、総務部を独立させるなど、状況に応じた最適化を進めました。また茶業界だけでは視野が狭いと思い、日本酒の蔵元など、いろいろな外のつながりを持つように動きます。

将来へ向けて、何を目指すべきか語る丸谷さん

ほうじ茶のさらなる商品開発が、会社の独自性への道だと確信!

会社の独自性を出すために、丸谷さんは主力商品であるほうじ茶のブラッシュアップにも取り組んでいます。

丸谷さん「もっと、ほうじ茶の深堀も進めたいです。色々な幅があり、商品化を進め、さらなる提案ができると思います。新茶の茶葉を仕入れて自社で焙じて作る『初夏焙茶』(しょかほうじちゃ) の予約販売も始めました」※現在は「焙茶noma」シリーズとして販売。

これは、丸谷さんは顧客が飲むシーンから思い描くことを出発点に、それに合う茶葉を探すという逆転の発想で始めたそうです。さらに2年ほど前、本社の横にほうじ茶用の茶室を作り、楽しみ方も探求しています。

本社の隣につくった茶室の双嶽軒

丸谷さん「父が最初に手がけた金沢のひがし茶屋街に町屋を改装して作った直営店『一笑』(いっしょう)は、オープン当初、近隣にはお店がなかったのですが、新幹線の開通もあって似たようなお店が増加しました。そこで我々はもっと『ほうじ茶』に集中した方が良いと考え、2年前に半年間休業し全面リニューアル。それまでの抹茶はやめ、ほうじ茶一本にしたのです。ほうじ茶も上等なものがあり、そのための非日常の空間でゆっくりできるようにしました」

誠慶さんは、ほうじ茶をさらにブランド化していこうと考え、次々と手を打ち始めています。6代目の新しい取り組みは続きます。

金沢でリニューアルオープンした「一笑」の店舗

文:此松 武彦

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