東京都日本橋にある富士フィルター工業株式会社は、1966年に工業用のフィルターを製造する会社として設立されました。宇宙から海底まで。果てしなく広い分野で、世界中のあらゆる産業で使用されるフィルターを作っています。
2006年に、父親である先代から事業承継した汐見千佳さんは、仕事一筋で家に居る時間が少ない父や家業のことをあまりよく思っていなかったと言います。しかし、ある出来事がきっかけに家業を引き継ごうと決心しますが、先代は「女にはできない」という考えの人だったそうです。
継ぎたくない娘と、継がせる気のない父。2人の心境が180度変化して起こった事業承継について、お話を伺ってきました。
仕事一筋で家にあまり居ない父。家族に関心が無いと思っていた
汐見さん「1960年代に、もともとは使い捨てのフィルターの会社の社長だった父が、独立後に母と2人でアメリカへ渡って片っ端から営業をしたそうです。その時に出会ったアメリカの会社と技術提携してできた製品が、のちに『FUJIPLATE』となる焼結金網のフィルターです。洗浄して再利用できる、使い捨てではない金網で作ったフィルターは、世界初の画期的なものなんですよ」
そう先代について話す汐見さんですが、幼少期から遊んでもらった記憶はほとんどなかったようです。仕事に没頭する父に対して、「ずっと家にいない人」という印象を抱いていました。
昔から海外出張が多かった先代が買ってくるお土産は、サイズが合っていない服や、子どもの年齢を間違えたお祝いのケーキ。「家族や子どもに関心を持たない、仕事のことしか考えていない人だった」と振り返ります。
汐見さん「家族旅行をしたこともありません。子どもの頃から家族で海外を訪れる機会は多かったんですが、それは旅行ではなく、取引先へ訪れるための『海外出張』でした。母も父の出張についていかなくてはならなかったので、子どもを置いていくわけにはいかなかったんですよね」
日本を離れて芽吹いた、父と家業への想い
その後エスカレーター式の学校に入学した汐見さんは、「視野を広げたい」という想いと、もともと志していたスポーツドクターになるために、アメリカへ留学しました。そしてこの時の経験が、汐見さんにとっても富士フィルター工業にとっても、後に繋がる大きな転機となります。
アメリカへ住んでみると、さまざまな人たちから、家族のことや親の仕事について聞かれる機会が多くあったと言います。自分の言葉で父の仕事を説明する機会が増えるにつれて、父に対する自身の気持ちにも徐々に変化が訪れ始めました。
汐見さん「フィルターっていう世界中で必要とされているものを作っているって、すごいことだなと思いました。それと、ホストファミリーの父親は毎晩定時に帰宅する人で、家族で過ごす時間がたくさんありました。でも生活にはゆとりがなかったんです。
私の父が『家にいない』ということは、それだけ働いているから。学校に通えたり留学をさせてもらえたり、好きなことをやらせてもらえるのは、父が遅くまで毎日働いているおかげなんだと気づきました」
自分の家族と、社員の家族の責任をひとりで背負い、経営者としてすべてを注いでいた先代。そして世界中から必要とされる製品を、命をかけて生み出している父の会社。日本を離れて初めて見えたその大きな背中に、汐見さんは尊敬の念を抱くようになりました。
そして、将来を決める大きな決断をしました。
汐見さん「父が全身全霊で守っている富士フィルター工業は、このままでは一代で無くなってしまうかもしれない。人に必要とされているからこそ残っているのに、勿体無いと思いました。スポーツドクターは自分じゃなくてもできる仕事。父の後を継ぐという『私にしかできないかもしれないこと』は、なかなかありません。頼まれてもいないのに、勝手に『私がやろう』と決めました」
「女にはできない」と言い続けた父が、2代目として認めた日
会社を継ぐ決心をしたとは言え、汐見さんはそれを直接先代へ伝えることはなかったそうです。
汐見さん「昔から父は『女に何ができる』という考えの人で、娘に継がせる気なんて微塵もありませんでした。それを知っていたので、母にしか伝えずに卒業後に勝手に父の会社に入社しました。
父から直接何か言われたことはありませんが、他の社員には『嫁に行く前の腰掛けだろう』『女にはできない、社員(男性)が頑張らなくてどうする』と言っていたらしいです」
汐見さんはまず会社のことを知るために、最初の1年間は工場に勤務しました。その後は8年ほど営業の仕事を担当し、会社のことや作っている製品のこと、先代社長が大切にしていることを、そばで見て学び続けました。
そしてある年の初めの挨拶で、突然先代社長の口から「将来は千佳にやらせる」と発表されました。
汐見さん「父は仕事について全く語らない人だったので、詳しくは分かりませんが、営業として働く姿を認めてもらえたのかなと思っています」
「女にはできない」と言い続けた父が、娘の千佳さんを承継者として認めた瞬間でした。
100歳まで現役と言われた父の死。スタッフに支えられた突然の事業承継
その後ほどなくして、先代社長の病気が発覚し、限られた関係者しかその事実を知らないままに、2006年に急逝されました。
汐見さん「父は100才まで社長をやるだろうと、みんなが思っていたような人だったから。本当に居なくなってしまうなんて、誰も信じられない様子でした」
そして汐見さんは33歳の時に、父に代わって会社を背負うこととなりました。突然の事業承継で、怒涛の挨拶回りの日々が始まりました。体力勝負な連日の移動に加えて、数多くの取引先のことを把握するため、頭の中もフル回転だったと言います。はたから見ると、倒れてしまいそうな過酷な状況にも関わらず、汐見さんはこう話しました。
汐見さん「私のために挨拶回りの準備をしているスタッフたちは、私以上に大変だったと思います。それを思えば、自分の苦労は大したことないと思いましたね。それに、大変だったことはもう過ぎてしまったので、忘れました」
そう明るく笑いながら「ほんっとうに支えてもらったんです。」と、周囲への感謝を繰り返し口にしました。
父が1代で築いた会社が、更に飛躍するための土台を築く
今も大切にしているのは、先代から引き継いだ「Never say No」、そして祖父から引き継いだ「Think Globally, Act Locally」というスローガン。その意味は「地に足をつけて、視野は広く世界規模で」というもの。
先代の積み上げてきた歴史を守りながら、さらに汐見さんは社員の教育システムの構築に取り組んでいます。具体的には技術者が検定を受ける機会を作ったり、社員が自社の商品を知るためのプログラムなどを実施しています。
先代の「見て学べ」という教育スタイルに苦労してきたからこそ、社員の教育を大切にしているのです。
汐見さん「教育によって、成長スピードも使える時間も変わってくるし、それは社員を守ることにも繋がっていくと思います。父が大切にし続けた『社員を守る』ということを、私が制度化しているという感じです。父の築いた歴史があるからこそ、今そこに目を向けられているのだと思います。事業承継のいいところでもあり、こんな幸せなことってないですよ」
「社員が世界一幸せな会社」を目指して
汐見さんが2代目に就任して、新しく掲げた企業理念は「世界で1番社員がHappy」。社会貢献や、お客様を大切にするということは当たり前。それを実現するためには、社員がHappyであることが不可欠だという、汐見さんの想いが込められています。
汐見さん「決めなきゃいけないこと、大変なこともあるけど、すべてがありがたいことです。だって、乗り越えたら強さを与えてくれるから。頭をフル回転させて知恵を集めて、前へ進むことは楽しくて幸せです。これからもクリエイティブに、世界で1番良いものを作って、他の人ができないことも私たちが『Never say No』で生み出していきたいです」
日本を、世界を、優しく力強く支える縁の下の力持ちとして、富士フィルター工業はこれからもHappyに進化し続けていきます。
文・船津さくら