事業承継ストーリー

富士の麓でソファを作り続ける「フジライト」。人と会社の自発的な成長を見守る

富士山にほど近い、静岡県裾野市に本社を構える「株式会社フジライト」。1965年に応接用ソファの製造、販売を開始し、時代の移り変わりとともに業務用家具の製造へとシフトしていきました。2013年にはオリジナルブランドを立ち上げて本社工場の一画にショールームを併設し、現在ではソファの製造をメインに行っています。

2011年に起きた東日本大震災をきっかけに裾野へUターンし、家具の製造、販売に留まらない幅広い事業展開を見据えている3代目の鈴木大悟さん。地元の高校を出た後は進学のため上京し、大学を卒業後は会社に務める傍らで音楽活動も行っていたという鈴木さんに、承継の経緯と当時の思いを伺いました。

震災で感じた、都会暮らしへの不安

若い頃は地元があまり好きではなく、静岡を飛び出し戻ってくるつもりはなかったという鈴木さん。34歳まではずっと関東で暮らしており、家業を継ぎたくないという思いもあったと言います。それでも家業を継ぐことに決めた理由は大きく2つありました。

鈴木さん「ひとつは震災の影響で会社の経営が厳しくなっていたということです。家業を継ぐのか、それとも会社を畳むのかという決断を迫られたというのがそもそものきっかけです。

もうひとつは、震災をきっかけに都市部での生活に不安を覚えたことです。当時の職場は世田谷にあったんですが、家族と連絡がとれず、交通機関も麻痺していたので自宅のあった川崎まで歩いて帰って、夜中の2時ごろにようやく家族の安否が確認できました。

コミュニティとの関わりが少ない生活が心地よいと思っていたのですが、隣近所に住んでいる人の連絡先が分からず、これから自分の子供達が育っていく環境や緊急時の対応を考えて、家業に戻ることを決めました」

自分と周囲の考えがマッチしていた

Uターン前はインテリア商社に勤めていたのも、心のどこかでいつかは家業を継ぐかも知れないという思いがあったからだという鈴木さん。家業を継ぐ決断をした時の周囲の反応はとても自然だったと言います。

鈴木さん「妻は新潟出身で、僕と同じような思いから都会での暮らしを選んだと思うのですが、やはり震災をきっかけに気持ちに変化があったのだと思います。だからこそ、僕が家業を継ぐことを決めた時も、妻は自然と理解してくれましたね」

工場の職人たちとは、幼い頃からお互いよく知った仲だったそうで、家業を継ぐために戻ってきた時も温かく迎えてくれたと言います。

鈴木さん「僕が子どもの頃から働いてらっしゃる方がほとんどで、家業を継いだことに対してもすんなりと受け入れてもらえました。やっと帰ってきたかという感じで、歓迎してもらえたのは嬉しかったですね」

未来を見据えた、人材への先行投資がなによりも必要だった

一方で、鈴木さんが家業に戻った当時は10人ほどいた職人のほとんどが65歳以上になっていました。

鈴木さん「ソファを作る工程はたくさんあって、それぞれに専門の職人さんがいます。当時はひとつの工程にひとりという形だったんですけど、僕が入社してからは少しずつ、各工程に若手を2人ずつ付けるようにしました。

職人さん自身も、自分たちの技術を次の世代へしっかりと伝えなければいけないという意識を持ってくださっていて、自発的に引き継ぎをしていってくれました。彼らにとって、教える相手は孫のような世代なので、比較的スムーズに日々の業務を学んでいってくれたのだと思います」

 

鈴木さん「技術を伝えるためにも、新しい人を入れていく必要があったので、1年目にはハローワークの助成金を活用して2人の方を雇って、次の年にはまた2人、3人と少しずつ人を増やしていきました。はじめは無理をしてでも人を増やさないといけなかったので、自分の給料を削るなどの苦労はありましたが、お陰様で人が増えると売上も伸びていきました」

家業に戻って見つめ直した、自社の強みと経営理念

鈴木さんにとって職場と職人は子どもの頃から身近だったとはいえ、家業に戻って始めて自社の強みを知り、現在の経営理念に落とし込んでいきました。

鈴木さん「戻ってきて、まずはじめにやったのは会社の経営理念をつくることでした。父親と母親の3人で週に一度家族会議をして、僕が両親にインタビューをしていくような形で、これまでどういう思いで仕事をしてきて、何を大切にしてきたかなどを聞いていきました。

当時は震災の影響もあって経営は楽な状態ではなかったので、昔話を始めたかと思えば、今を憂いて母親が泣き出したりと、かなりエモーショナルな時間でした。3、4ヶ月ほど会議を続けて、僕の思いも加えた今の経営理念を一言一句、3人でつくりました」

皆の思いが込もった商品を、お客様に直接届ける

鈴木さん「2013年に立ち上げたオリジナルブランドには『MANUALgraph』という名前をつけました。ソファづくりの多彩な工程の中でも、木工の男性的な力強い仕事を大文字のMANUALで、生地の縫製といった女性的で繊細な仕事を小文字のgraphで表現しています。

バブル期以降、国内のモノづくりが価格競争に陥ってしまっていたことに疑問を感じていたので、今でも卸はしていません。また、地域に人を呼び込むためのきっかけになりたいという思いがあるので、エクスペリエンス・スポットという場所を通してソファの体験ができるようにしています。

元々音楽をやっていたこともあって、家業を継いで改めて感じたのは、モノを作り上げていくことの楽しさですね。オリジナルブランドでソファをつくったときは、インディーズレーベルでアルバムを出したような感覚でした」

経営理念にもある通り、自分たちの思いを通してお客様に喜んで頂くことが仕事のやりがいだという鈴木さん。2019年10月にはららぽーと沼津に直営店がオープンしていますが、半年後には新型コロナウイルスの影響で休業を余儀なくされてしまいます。

鈴木さん「4月と5月にお店が休業してしまったんですが、スタッフを休ませるわけにもいかないので裾野の本社に来てもらって、工場の作業を手伝ってもらうことにしました。研修としては良い経験だったとはいえ、工場もコロナの影響を受けていたので、任せる仕事はそれほどなかったんです」

鈴木さん「そういう状況の中で、社員たちが自発的に『こういうソファがあったらいいよね』という話をし始めました。自宅での時間に伴う在宅需要が増えていて、会社としてもこれまで以上にインターネットを活用していく必要があると感じていたので、新作ソファの商品開発をして、クラウドファンディングを始めました」

工場に職人と販売店のスタッフが一同に集まり、時間に余裕がある時期だったからこそ、沢山の試作品をつくることができたという鈴木さん。最後に、「フジライト」が目指すこれからのビジョン、そして鈴木さん自身の想いを伺いました。

裾野という、可能性を秘めた土地に人を呼び込む

鈴木さん「これまでやってきたブランドのマーケティングは実店舗での販売がメインだったんですが、コロナ禍で行ったクラウドファンディングを始めとするECやデジタルの活用には引き続き力を入れていきたいです。また、ブランドを立ち上げた理由のひとつでもありますが、地域に人を呼び込むために、今は『MANUALgraph P.A.R.K』という体験を提供する場所を構想しています」

鈴木さん「ここ数年で社員が増えて工場も手狭になってきたので、近い将来、移転・建て替えは必須だと考えています。その際に、裾野という土地のポテンシャルを最大限に活かせるロケーションに、テーマパークのような場所を作ろうと思っています。

ソファを中心とする、ブランドが表現したい世界観を体験できる施設を通して、地域の魅力にも触れてもらえる場所にしたいと思っています。富士山が見える場所で、『MANUALgraph』のソファを体験しながら泊まれるホテル、ブランドのショップや見学できる工場などをひとつの場所に集めることで、裾野に人を呼び込むきっかけになりたいですね」

都市と地域が交差する場所、裾野

鈴木さん「僕個人としては、裾野に戻ってきてからは充実したライフスタイルが実現できているので、これからはより多くの人に裾野の魅力を伝えて、共有したいです。そのために、会社とは別で一般社団法人南富士山シティというまちづくりの団体を立ち上げて移住相談を受けたり、イベントやワークショップの企画も行っています。

都会にあるような刺激はまだまだ少ないかもしれませんが、新幹線を使えば都心までは1時間も掛かりません。一方で、裾野にはサファリパークやキャンプ場などの地域資源が豊富にあるので、都会の刺激と地域の魅力、そしてフジライトが持つブランドの価値が共存できるのではないかと思っています」

裾野市は、トヨタが手掛けるWoven Cityでも注目を集める一方で、鈴木さんは自身の体験を通して地域に根ざした魅力溢れるライフスタイルを体現し、提案されています。都市と地域の未来が交差する、裾野のポテンシャルから目が離せません。

株式会社フジライト
MANUALgraph

文:清水淳史

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