宮崎県の最南端に位置する串間市。海水で芋を洗う猿で有名な幸島や野生馬のいる都井岬があります。
そんな自然豊かな串間市にあるスーパーマーケット「四季彩館ほりぐち本店」の一角にお店を構える「HOLLY’S BAKERY」は、地元で愛されるパン屋でしたが、3年前にパン職人が不在となり、販売をやめることになりました。
しかし2022年6月、運命的な出会いにより復活を果たしたのです。
これが最後のチャンス。北海道から宮崎県最南端の串間市へ
パン屋の復活を任されたのは、大阪府からご夫婦で移住してきた岡村治さん。移住のきっかけは、2021年度に開催された「九州移住ドラフト会議」でした。
「九州移住ドラフト会議」は、移住者を受け入れたい地域を「球団」、移住志望者を「選手」とし、プロ野球のドラフト会議のように、地域が移住希望者を指名するマッチングイベント。岡村さんは、このイベントで串間市から1位指名を受け、2022年4月に串間市へ移住されました。串間市の存在は、その時初めて知ったそうです。
岡村さん「私は高校卒業後、大阪のスーパーマーケットで35年間パン職人をしていました。ただ、いつか違う地域に行きたいとずっと思っていたんです。そして54歳の時に退職したことを機に、昔から大好きだった北海道の地域おこし協力隊に就任しました。そこでは居酒屋を承継する予定でしたが、コロナで話がうまく進みませんでした。大阪に残していた妻が体調を崩してしまったこともあり、移住後2ヶ月で大阪に戻ることになったんです」
人生最大の決断をして選んだ道が、たった2ヶ月で閉ざされてしまった岡村さん。大阪に戻ってからは、奥様の看病のため、タクシーの運転手を1年ほど勤めていたと言います。
岡村さん「せっかく人生で一番大きな決断をしたのに、このまま大阪にずっといるわけにはいかない。大阪に戻ってからも、違う地域に行きたいという想いを諦めきれませんでした。いろいろと調べていたら、インターネットで九州移住ドラフト会議のことを知ったんです。年齢的にも最後のチャンスだと思い応募しました」
岡村さんを一位指名した、四季彩館ほりぐち取締役専務の堀口直樹さんは、民間の団体として九州移住ドラフト会議に出場。岡村さんの経歴を聞いて「この人しかいない!」と思ったそう。まさに運命の出会いです。
眠っている場所と道具は全て宝物
移住して1ヶ月後、岡村さんは四季彩館ほりぐちに就職しました。任されたHOLLY’S BAKERYでのミッションは、大人気だったホテル食パンの復活です。
このベーカリーでは、パン職人がいなくなっては閉店することを繰り返し、3年前からずっと眠っていた場所。しかし、堀口さんは、なんとしてでもこのベーカリーを復活させると諦めませんでした。特に、人気商品だったホテル食パンの復活は絶対に外せなかったと言います。
堀口さん「串間市にはパン屋が少ないんです。だからこそ、町の人から愛されてきた美味しい食パンをまた届けたいという思いが一番強かったですね」
岡村さんが就職後、約1ヶ月の準備期間を経て、2022年6月6日「HOLLY’S BAKERY」が本格的にオープン。
『受け継がれるホテル食パンの味を再現するのは時間がかかるだろう』と堀口さんは思っていたようですが、なんと岡村さんは2日間で再現。さすが35年の経験を持つベテランパン職人です。
しかし、移住が決まってからとんとん拍子で話が進んでいく中、岡村さんは迷いや不安はなかったのでしょうか。
岡村さん「この話を受けると決めた時、全く迷いはありませんでした。今、私は56歳。この年齢だと、まず就職することが難しい。事業をするにしても、場所と什器は必ず必要なものです。使える道具たちが眠っているなんて、こんなにもったいないことはない。僕にとってそれは全てチャンスなんです」
当初、奥様は反対されていたようですが、岡村さんの熱い思いを伝え説得。今では、夫婦で過ごす時間も多くなり、2人で海岸に行って綺麗な貝殻や石を拾ったり、釣りを楽しんだりして過ごしているそうです。
岡村さん「パン屋は通常早朝から仕込みをしますが、ここは朝7時からの勤務。堀口さんは、仕事も好きなことも楽しんでほしいと、社員が働きやすいように気を配ってくれています」
パンと向き合う真剣な眼差しとは一転、最近見つけた貝殻の話を嬉しそうに話す岡村さんの笑顔からは、夫婦で過ごすやさしい時間が流れていることが伺えます。
「自分が」よりも若い世代に繋ぎたい
HOLLY’S BAKERYの食パンは、バターをふんだんに使い、小麦粉と水にもこだわって作られています。そのため、甘くふわふわの食感がたまらない商品です。
その味を復活させた仲間に、岡村さん以外にもう1人、山口晏奈さんがいます。山口さんは、パンが好きで洋菓子店から岡村さんと同時期に転職。毎日がとても楽しいと話します。
岡村さんと山口さん、世代の違う2人が運営するベーカリー。岡村さんに今後の展望を伺いました。
岡村さん「串間市のことを知らなかった私ですが、初めて日南海岸をドライブした時、とてもいいところだなと思い移住を決めました。そんな場所で、私の経験や技術が再び生かせる仕事に出会えたことは本当にご縁だなと思います。私は若くはないので、自分が継ぐというよりも次の若い人たちに繋ぎたい。そのためにできる範囲のことはしたいと思っています」
岡村さんによって、再び息を吹き返したホテル食パン。しかし、岡村さんはその先まで見据え、自分が何かを成し遂げるよりも、自分の持っているものを次世代に伝えたいという思いを抱いていました。
すでに次の世代への承継が始まっているHOLLY’S BAKERY。今後は、ホテル食パン以外も徐々に種類を増やしていきたいとのこと。このホテル食パンの復活を機に、きっとまた住民の皆さんの生活の一部になっていくに違いありません。