静岡県伊豆半島にある南伊豆町で郷土料理屋を始めて37年。今や観光客から地元の人まで、広く愛されているのが「伊豆 おか田」です。数々の困難を乗り越えて、いまや、伊豆になくてはならないお店の一つです。コロナ禍でもお店を続けてこそ、従業員やその家族、地域に貢献できると語るのは、二代目の岡田正司さん。先代の岡田正さんも交えて、おか田を事業承継するまでの経緯を伺いました。
一度は地元を離れるも、父親の一声で規模拡大と同時にお店へ
おか田がオープンしたのは1985年、正司さんが中学生の頃でした。自分の店を営む夢があった父親・正さんが、南伊豆で旅館の支配人を辞めて始めたお店です。当初は今よりも小さなお店で、自分がやりたくて始めたため、誰かに継いでもらいたい気持ちはなかったと言います。
正司さん「僕は4人兄弟の次男。万が一誰かが継ぐ可能性はあっても、自分だとは全く思っていませんでした。むしろ地元にいたくなかったので、高校を卒業した後は、就職先の静岡市へ引っ越しました。旅行業者に旅館やレストランを紹介する、旅行案内の仕事をしていました」
正司さんが南伊豆町から出て約5年経ち、おか田に転機が訪れます。店舗拡大の話が持ち上がったのです。そのためには、銀行から借入をしなければなりません。誰かが継ぐなら拡大する、継がないなら断念するという決断を迫られたとき、正さんは「店を継ぐなら次男の正司が良いのでは?」と思ったそう。
正さん「正司は対人関係の作り方がとても上手い。トップとしてお店を動かしていくには、対人関係がうまく作れるかどうかが一番重要だと思っていたので、店を継いでもらうなら正司が適任だと思っていました」
当時、正司さんは23歳。社長になること自体に興味はなかったそうですが、地元に戻ることには前向きになっていた頃だったといいます。
70歳で引退を決めた父親。39歳で経営未経験のスタート
静岡市から南伊豆町に戻り、おか田で働き始めた正司さん。正司さんが戻ってきたタイミングはお店としても転機でした。以前よりも広くなった敷地と新たな店舗で、正司さんはホールで他のスタッフと共に働き、前職の経験を活かして旅行会社の受け入れを増やすなど、力を発揮していきました。
正さん「お客様や事業者とのやりとりは、私よりも正司の方が長けています。私は70歳になったら引退しようと決めていたので、これで安心して店を任せられると思いました」
接客だけでなく、仕入れ業者や旅行業者、スタッフとのやりとりまで、全てが人と人との関わり合いです。技術が長けているよりも、経営者に大事なことは人との関係性をうまく構築できるかだと思っていた正さん。正司さんに「引き継いでほしい」と徐々に伝えていきました。
正司さん「僕自身は正直、社長業がどういうものか分かっていませんでした。ただ、当時は継ぐとしたら自分しかいなかったし、父さんからも継ぐかと聞かれていたのでやってみようかなと。両親が店自体から引退する訳ではなかったので、いざとなったら聞けばいいや。というくらいの気持ちでしたね」
当時39歳だった正司さんは、経営について全く知らない状況ながらも、おか田を継ぐことになりました。
2つの失敗で心が折れる。「辞めちゃダメ」友人の言葉でお店を再開
正司さんが社長となり、最初にぶち当たった壁はお金でした。当時、店舗拡大の際の借入が残っており、負債は6000万円。お金の回り方、銀行との話し方、店長としての店の回し方…正司さんにとってすべてが初めてで、わからないことだらけだったと言います。
正司さん「事業承継してから3年目の時、大赤字を出してしまったんです。当時の自分は、自分がやりたいようにお客様に食事を提供し、原価計算をしていませんでした。3年目までは経営が順調だったので、気にしていなかったんです。その時初めて、数字と向き合うことになりました」
大赤字だと気づき、すぐに対応したのは減価率の計算、そして旅行業者に対する料金の値上げでした。「伊豆 おか田でならお客様が安心して食べられる」という旅行業者の信用もあって、料金の値上げは受け入れてもらえたそう。売上の半分以上は団体客というほど、旅行会社からの売上が伸びていたため、なんとか大赤字から脱出することができました。
正司さん「次にぶち当たった壁は、5〜6年前に出してしまった食中毒です。赤字でお客様が困ることはないけど、食中毒は違う。来てくれるお客様にも、お店や私を信用して任せてくれていた旅行会社にも、迷惑をかけてしまいました。さすがに店を畳もうと思いましたね」
食中毒を出してしまって休業していた時、遠方の知人からたまたま連絡があったと言います。
正司さん「うちがお休みしてたので、事情を説明して店を畳もうか悩んでいると話したら、開口一番に『辞めちゃダメ』と言われました」
「辞めることは逃げること、なかったことにしようとすること。創業者である父が開業した時からすでに20年が経ち、地域の観光業にも影響を与える店舗になっていた場所を、簡単に諦めてはいけない」そんな知人の声のおかげで、辞めない決断ができた正司さん。これを機に正司さんは「応援してくれる人がいる限り辞めない」と心に決めたそうです。
人の話を聞き、頼る。オープンで無理のない経営を目指す
店舗の清掃方法から衛生管理まで、これまでのやり方を見直して店舗を再開した正司さん。「人に頼る」という姿勢が功を奏し、出入り業者は父親の代に比べて2〜3倍に増え、徐々にお店には活気が戻ってきました。
正司さん「経営者になっても分からないことだらけです。だからこそ、僕はその道にプロたちに任せています。営業に来てくれた人も無下にはしません。なぜなら、うちが不利になるような話は絶対持ってこないと思うから。ちゃんと話を聞いた上で、お任せできるかどうか判断しています。
もちろん、何かあったら自分の責任だと、社長になった瞬間から心しています。おか田が向かう方向性は間違えてはいけない。だからこそプロたちに知恵を借りながら商売させていただき、そしてお客様や事業者のみなさまに還元しています」
コロナ禍でも攻めの姿勢。お店は従業員や地域のために
経営難も食中毒も乗り越えた正司さん。安心したのも束の間、新型コロナウィルス感染症が全国の飲食店に影響を与えました。コロナ禍前は半分以上が団体客だったため、おか田の売上は落ちたものの、正司さんはあえて、攻めの姿勢をとったそう。
正司さん「まずはお土産販売を始めました。お店で出していた金目鯛の煮付けなどをご自宅でも食べられるようにと、真空パックにしました。もちろん配送も承っています。コロナ対策や時短、そしてアルコール類の非提供などを徹底的に行った上で、店舗営業は続けました。うちが休んだら、せっかく南伊豆市に来てくれたお客さんの行く場所がなくなってしまいますからね」
広い面積を持つお店だからこそ、密にならない空間を用意することができます。店を営業しない選択をすれば、お客様だけではなく地域の観光事業者、そして出入り事業者も困ります。約8300人が住む南伊豆市。この市の玄関口とも言える場所にあるおか田は、すでに、地域にとってなくてはならない存在でした。
正司さん「従業員は板前さんを含めて15人。彼ら/彼女らの雇用や、家族の生活がかかっている時点で、辞めてはいけないんです。南伊豆町にだってたくさん助けられていて、ご恩がある。店舗を拡大した時点で、お店は私たちだけのものではありません。お客様や働いている人、そして取引先のものでもあります。だからこそ、どうやったら続けていけるかを、常に考えています」
跡継ぎは未熟なもの。だからこそ、見守るのが先代の役目
数々の困難を前にしてもお店を続けることができたのは、先代の立ち位置や振る舞いにも助けられたからだそう。
正司さん「父は僕のやり方に一切口を出さなかったんです。僕から質問をすれば『こういうふうにした方がいいんじゃない?』とアドバイスをくれるだけで、何かを強いることは一切なかった。かといって店から足が遠のくわけでもなく、今も一緒に働いてくれている。その距離感が二代目の僕としては、とても大事だったと思います」
先代にとって跡継ぎとは、必要な存在ながら未熟なもの。ついつい口出しをしてしまう人も少なくないかもしれません。しかし、正司さんが言うように、跡継ぎにとっては任せてもらえるからこそ得られる喜びもあります。従業員や地域にとってあるべきお店の姿を体現しているおか田は、美味しい料理とともに、これからも南伊豆に欠かせない場所であり続けます。
文・Fujico