モノづくりのまち、東京都大田区にある「株式会社城南村田」。大田区蒲田に50年以上根ざし、モノづくりや地域活性化に関わってきました。
現在は3代目の青沼隆宏さんが承継し、真空成形金型の一貫生産やお菓子のトレーの製造などを行っています。国内でも数少ない、精巧な技術を持つ「木型師」が生んだ「ソフビ人形」も人気です。
先代から不渡りを告げられ、逆風の中社長に就任した青沼さん。決して順調ではなかったという承継の道のりについてお話を伺いました。
業績悪化は、会社を再建するチャンス
創業者である祖父、父が2代目社長という環境で育ってきた青沼さんは、いつかは家業を継ごうと考えていました。そして大学時代に父から「経営者になるためには、数字に強くなるといい」とアドバイスされたことがきっかけで、日本の会計事務所で4年、ビジネスを学ぶためにアメリカで会計の仕事に3年半携わりました。
そんなある日、監査役だった母親から「会社の状態が思わしくないから日本に戻ってきてほしい」と電話があり、青沼さんは帰国することに。もともと、家業を継ぐために会計の勉強をしていたので「これは会社を再建するチャンスだ」と感じたそうです。
青沼さん「日本に戻ってから、1年間は過去の決算書類と現場を見ながら、会社の問題点を洗い出していました。その当時、先代の2代目社長である父とはほとんど会話をしていませんでした。自分で改善方法を考えて動いていたんです」
金曜日に告げられた「不渡りが出てしまった」という一言
日本に戻って1年経った頃、先代の社長、父親から初めて社長室に呼ばれ、「大口の取引先が倒産して、不渡りが出てしまった」と告げられたという青沼さん。「1か月で1億円ものキャッシュフローが不足することが分かっていて、金曜日のことだったと今でも鮮明に覚えています」と青沼さんは振り返ります。さらに、金融機関からの信用もなかったために借り入れもできない状態だったそう。
青沼さん「そこで、父に『会社を任せて欲しい』と言いました。当時の私は1年間に渡る会社の決算書類を見ていたので、会計の知識を活かして今後の2年間の返済計画と再建案を作りました。土日も休みなく徹夜で作りましたね。そして、月曜日には複数の主要仕入れ先に再建案を持って走りました。結果として、“私が社長に交代することを条件”として再建案が受け入れられたんです。仕入れ先には手形の支払いを延長してもらったことでなんとか首の皮一枚繋がりました」
先代の抵抗を押し切り、会社を守るために社長就任
青沼さん「私の場合、事業継承は決して順調にいったわけではありませんでした。仕入れ先への再建案が通り『何とかなるだろう』と考えていた父親や当時の役員は、私の社長交代に対して抵抗しました。
支援先にとって「私が社長になること」が条件だったこともありますが、それよりも子供の頃からあった『会社を残したい』『従業員を守りたい』という使命感から『会社を任せて欲しい』と押し切って社長になりました。先代を慕っていた人は会社から去っていきましたが・・・。
その後、毎日複数の金融機関をまわり、やっと手形の割引をおこなってもらう信用金庫を見つけることができました。何とか再建計画は予定通り進んでいきましたが、これ以上の売り上げを増やす術がなく、製紙業界の限界も同時に感じていました。
32歳で社長になった当時、従業員は全員年上で、交代と同時に何人か辞めてしまったので新たに若い従業員を雇いました。『会社の事業が紙だけだと、この先、若い従業員が路頭に迷ってしまう』そう感じていたので、売り上げを増やすためにも新規事業を立ち上げることにしたんです」
新規事業の壁にぶつかっているとき、舞い込んできたM&Aの話
青沼さん「素人がやっても新規事業の立ち上げができるわけがなかったですね。そんな時に、再建案の時からずっとお世話になっている銀行からM&Aの話がきたんです。返済計画を予定通り完了させたこともありましたが、毎月1回の報告を続けていたため関係性が築けていたんだと思います。社長になってから20年ずっと報告は続けています。そして、2度のM&Aを通じて事業が発展していきました。
1度目は、金型を製造していた株式会社トーマックが後継者不足に悩んでいることを知り、ちょうど会社が紙以外への事業拡大を考えていたため、お互いの希望が一致しました。木型師を多く抱えていたので彼らの技術は今も活かされています。2度目はトーマックと顧客層が似ていた株式会社ムラタ洋紙店のM&Aをすることで、さらなる営業先獲得に繋げることができました。
M&Aで会社の魅力をパズルのように組み合わせていく
青沼さん「承継後にM&Aで事業を拡大してきましたが、もともと中小企業は規模が小さい分、すべてにおいて効率が悪いと思います。そこにM&Aによって規模が大きくなり、営業先が自然と増えたり、技術的なバラエティが増えたり、お互いの持っているコト・モノを組み合わせてコラボができたり、それぞれのお客さんに新しい技術が紹介できたりと規模が大きくなると思います。
M&Aの魅力は2つあると青沼さんは言います。1つは、M&Aした会社の経営者から『承継してくれてありがとう。まさか誰かが事業を買ってくれるとは思わなかった』と感謝されることです。春に子会社化した会社も、数字に対して誠実だったこと、人柄も誠実だったこともありましたが、とても喜んでくれました。事業の継承者がおらず困っている経営者はたくさんいると思います。
2つ目は、成功した時の嬉しさです。2つの会社のそれぞれの魅力を戦略的にパズルのように組み合わせていき、実行に移して成功した時の嬉しさは格別ですね」
「城南村田が大田区にあって良かった」と言われる存在でありたい
青沼さん「コロナ前までは取引先と、いつも事務所で打ち合わせをすることが当たり前でした。ただ、コロナ禍で打ち合わせがオンラインでできてしまうことも分かり、私の中でも「場所」に対する概念が変わりました。そこで2021年春、札幌のプレス加工会社、有限会社スズキ工業所を子会社化したことをきっかけに、東京と札幌の二拠点生活を始めたんです。先方は後継者不在で困っていましたし、こちらとしてはコロナの影響で菓子トレーの受注が減少していたため、お互いの設備や営業先を活かしながら前に進むことができました。
現在は、東京(大田区)と札幌この2つの場所をどう活かしていくか模索中です。東京にある複数の工場が一つの場所を活用する「工場アパート」という案も考えています。大田区で場所を必要としている人・会社の受け皿になりたいです。
また、毎年、近所の小学校で出張授業を行っていて大好評いただいています。「城南村田が大田区にあってよかった」と思ってもらえる存在であり続けたいと思っています」
令和の時代、新しい「働き方」を模索中
青沼さん「コロナ禍によって、蒲田にある会社で打ち合わせをする機会が減ったと同時に、新たに取締役となった会社で札幌にいる時間が増えました。釣りが好きなので札幌の生活は楽しいですよ。私自身、『仕事=人生』だと思っています。仕事をすることで人生を豊かにしたい。これは、お金の面もそうですが、お客様とのやり取り、従業員との関係性も含まれます。ただ、何に充実感を感じるかは人それぞれだと思います。令和はさらにそんな時代になっていると思います」
ホームページのリニューアルやSNSでの発信等マーケティングにも注力し、新しい時代の「コウバ」のあり方を模索する青沼さん。副業人材の採用など、新しい働き方にも力を入れています。また、地元の高校からインターンシップを受け入れたり、地域の子どもたちに向けた「蒲田本町つながる学校」も好評です。
経営難を乗り越え、地域に愛される存在へと飛躍した「城南村田」。72年の歴史を超え、時代に沿ったものづくりに挑戦し続ける青沼さんにこれからも注目です。
文・田中博子