事業承継ストーリー

40年以上続く穴子の製造加工業。先代の想いを残すために、事務職から代表になることを決意

海山の自然を生かした観光資源が豊かな島根県浜田市。漁業も盛んで、中でも穴子の漁獲量は近年日本一を誇る年がとても多いです。この地で40年以上に渡って、地元で獲れた穴子の製造加工業を営むのは「村田漁村株式会社」です。

現在、代表を務めるのは三代目の三浦英子さん。承継のきっかけは7年前に先代が急逝したことでした。

「自分が承継しなければと心を決めました」と話す三浦さんに、事業承継の背景や承継後の取り組みについて伺いました。

事務職として入社したことが始まりだった

村田漁村は、1976年に創業、三浦さんで3代目です。初代社長が村田漁村を創業する以前から、代々に渡って魚の干物を販売して生計を立てていた家柄で、長きに渡って漁業に関わってきたそうです。

1代目と2代目は22歳年の差が離れた兄弟で、2人とも三浦さんの祖母の兄弟にあたります。1代目の逝去によって、1983年に2代目弟が村田漁村を承継することとなりました。

三浦さん「社会人になってからずっと別の会社で事務職をしてきました。出産を機に一度退職しましたが、落ち着いた頃に新たに求職活動を始めたんですよね。

そのときに先代が『ここで事務職をしないか』と声を掛けてくれたんです。そして、2005年4月から村田漁村で働かせてもらうことになりました」

承継の話が出るも、気持ちは前向きになれない

先代は早くに奥さんを亡くし、直系の血族が居ませんでした。それもあってか、ほどなくして三浦さんにも後継ぎについて話をするようになったそうです。しかし、会社を継ぐことなど全く考えたことのなかった三浦さん。事業承継の話を持ち掛けられても、前向きに受け止められなかったと振り返ります。

三浦さん「あるときから先代が、現在の常務か私に『後を継いでほしい』『お互いに支え合ってやっていってほしい』と言ってくるようになりました。

それに対しては、2人とも気持ちは同じで『支え合うことはできるけれども、継ぐのはちょっと…』と、常務と共に気持ちが後退りしていました。私は、事務の仕事しかしたことがありませんでしたし、事業を引き受けることなど考える余地すらなかったです」

常務は当時、村田漁村へユニフォームなどの卸しの仕事を自営業でしていた人です。後に先代の遺言を元に常務となります。当時から、頼まれた仕事以上のことも熟す人で、近隣の業者へ村田漁村の商品を仲介してくれたりお中元ギフトを取りまとめて発送してくれたりと、陰ながら先代を支え続けた人だったそう。

三浦さん「先代と常務はプライベートでも仲が良く、公私を超えて支え合ってきたことで、とても信頼が強いと聞かされていました。

2人の信頼の強さは近くにいればわかりましたし、承継の話を常務に振った先代の気持ちもよく分かります。ただ、先代が私にどんな信頼を寄せていたのかは未だにわかりません。ただ、幼いころから多くの時間を共にする中で、私のことも何か信じてくれていたのかもしれないとも感じています」

突然すぎる先代の逝去に、込み上げるものがあった

承継についての話し合いを続けていたとある日。突然、体中がむくみ始めた先代は20日ほど寝込み、この世を去ってしまいました。

三浦さん「原因は、多臓器不全でした。あまりにも急でしたし、当時は村田漁村も親族も、私の心情も、全てが慌ただしかったです。そんな中で『村田漁村の企業や従業員を買ってもいい』と申し出る企業が現れました。

正直、それに対して『悔しい』と思いました。私は、それまで先代がどれだけ頑張ってきたかをずっと聞いてきたんです。先見の明がある人でしたし、先代の村田漁村に対する想いを訊くのが好きでした。先代の想いが詰まった村田漁村を残したいという気持ちが強まり『私が継がなければ』と、承継の意思が固まりました」

それからの三浦さんはすぐに行動。当時のスタッフと常務を集め、買取の話が出ていることや自分が継ごうと思っていることを素直に伝えました。

三浦さん「『私に付いてきてくれますか』と、聞いて回ると、従業員の方々も常務も賛同してくれました。そして、2015年10月に、代表取締役社長として村田漁村を承継することになりました」

事業承継後の課題と問題に苦悩する日々

承継を決めた三浦さんですが、あまりにも急なことで、多くの課題や問題が次々と出てきました。そのひとつが穴子のタレの味つけだったと言います。

三浦さん「先代がタレの改良調合を行うときに、常務と一緒に参加させてもらっていたんですよ。いつも『食べてみんさい』と言われて、先代と常務と私の3人で『ああでもない、こうでもない』と意見を出し合っていました。

それなのに、いざ自分がタレ作りをするとなると全然上手くいかなかったんです。先代が事業承継の話を持ちかけてくれたころから腹を括っていれば、もっと詳しく教えてもらえていたんじゃないかと思うと悔しかったですね。タレだけに限らず、困難にぶつかる度に先代の話をもっと聞いていたらと多くの後悔が残っています」

また、ずっと事務職をしていた三浦さんは現場の仕事を取りまとめることにも苦労しました。

三浦さん「私自身、村田漁村で働く皆さんのフォローは出来るけれど、先導して引っ張っていくことは出来ない状況でした。魚を捌くことも、ベテラン勢には敵いません。そんな私を見て、『製造に関して何も分かってない』と思う人もいたかもしれません。

中でも村田漁村の代表として、多くの決定事項に悩みました。先代の声が聞こえてくれば、それに従えばよかったのかもしれないですが、先代はもういない。色んな意味でとても苦しみました。『先代ならどうやって決めるかな』と、一歩下がって冷静に対処できるようになるまでに、長い時間を要しましたね」

あたたかな人脈が自身を支え、前を向くきっかけに

急すぎる承継に苦労も多かったと話す三浦さんですが、事業承継だからこその良さもあると言います。

三浦さん「承継後は、新たな出会いからの人脈に恵まれました。あちこちに頭を下げる中で『一緒に頑張ろう』と言ってくれる人も多かったです。そうした人たちのお陰で、人々の豊かさを身を以て感じました。

また、事業承継後に出会った方々のお話は勉強になることばかり。それが承継者としての歩みの中でのアイデアにも繋がりました」

その繋がりのひとつは、水産漁業を営む社長としての三浦さんに大きな変化をもたらしました。一般的に競りの場に立つのは社長ですが、三浦さんは競りには参加しません。そのため「社長なのに、競りに参加しないのはなぜか」と、問い詰められたこともあるのだとか。しかし、ここでも三浦さんの人脈が支えとなりました。

三浦さん「先代が倒れたときは、競りに行ける人がいなくなり仕入れが出来ず、慌ただしさも相まって村田漁村の仕事が回らなくなりかけていました。そのとき、先代と仲が良かった同業者の方が『買い付けのことは大丈夫だから』と、駆けつけてくれたんです。本当に助かりましたし、今でも心の底から感謝しています。

承継を決めたときも『継ぐんか?継ぐなら自分が守ってやる。競りのことは大丈夫だから』と、支えてくださいました。その御恩を忘れないという意味でも、今もその方に競りをまかせ、私は買付け後の引取りに行っています」

人脈を通じて受けたさまざまな恩恵について、三浦さんは「人を大切にすることが繋がりを生み、繋がりによって、より良い方向にいけるはず」と話してくれました。

時代に合わせた働き方改革を

承継後、三浦さんは働き方改革にも積極的に取り組んでいます。

三浦さん「村田漁村に入社した直後から介護と子育てを同時進行が始まりました。村田漁村に限りませんが、当時は仕事優先で家庭の都合などは言っていられない社会背景だったように思います。私自身も、そんなもんだろうと思って乗り切っていましたが、当時は本当に辛かったです」

育児・家事・介護のバランスを取りながら働くことは、尋常ではないエネルギーを要します。また、自分が倒れるわけにはいかず、自身の体調も気に掛けなければなりません。その苦しい経験から、村田漁村を女性が働きやすい体制に変えていきました。

三浦さん「誰しも自分の身体が資本です。自分の身体を大切にしてもらうためにも、仕事を長く続けてもらうためにも、個々の状況に応じて勤務中も途中外出を出来るようにしました。会社の不利益になり得るケースもあるかもしれませんが、そこは個々人の良心を信じています。

暮らしと仕事の両立は大変です。全て完璧に出来る人はいないので、不得意なところは得意な人にフォローしてもらって、支え合うことが大切だと思います。私が競りに参加しないのも働き方改革のひとつだと思っています」

山陰の穴子のファンを増やし、先代の気持ちを繋ぎたい

三浦さん「山陰の穴子は、肉厚で脂の乗のりが良いです。その上、癖もありません。ぜひ、その穴子の美味しさを知ってもらって、これからはファンを増やしていきたいです」

ホームページをリニューアルし、ネットショップも始め、時代に合わせて変化を続ける村田漁村。そこには「山陰の美味しい穴子を多くの人に広めて、穴子のファンを増やしていきたい」という三浦さんの想いが込められています。

文・瀬島早織

この記事をシェアする

事業承継情報をお届けする
メールマガジンを登録しませんか?

公募案件のご案内や事業承継の事例インタビューなど、
relayならではの最新情報をお届けします。お気軽にご登録ください!

利用規約 および プライバシーポリシー に同意する